わたしの考える鍼灸術の良さ

最近の鍼灸師の教育レベルはとても高くなっているようで鍼灸大学卒のかたもたくさん出てこられているようです。わたしのような昔の鍼灸師には想像もつかないほどの高いレベルの研究や臨床をされているのでしょう。高度な教育や難しい弁証論治が華やかにとり上げられ話題にされることは嬉しいことでもあるのですが、そんななかわたしは何か釈然としないものを感じてしまうのです。

理論が先立つ?中医学

40年ほど前だったでしょうか、中医学の本が出始めたころなんとも論理的だなと驚いたものでした。理路整然としているため現代医学の医者にも受けが良かったようです。

そして中医学の勉強を始めるドクターもたくさんいたようでした。ところがしばらくして中医学は理屈ばかり、効きはしないというような評判がたったものです。

なんとかのツボはここから何寸と決められそこに太い鍼をブスリと刺す。いったい人間は個人個人によりあまりに違うからだであるのにそれはないだろうと思ったものです。

人の生身の体を観察することを置き忘れたやり方でないかとわたしは反感を持ったものでした。

毎日の臨床のなかから気づくこと発見すること

実際の古典的鍼灸臨床の場では生気と邪気の操作というものに終始することになるのですが、この生気と邪気が臨床経験の中から直接掴みとれるようになってくるものです。そして弱った生気には補いの補法、不要な邪気には捨て去り追い出す瀉法という手技をしてやることになります。

補法と瀉法の代表的なものに迎随、出内、開闔などの手技が古典に述べられています。最初はこれを忠実にまねることから始めます。

術者が各々臨床の中からそれらの手技を模倣、経験していくうち、自分だけのやり方が編みだされてくることになります。古典に書かれたとおりやってみてそうだと思うもの、またそれはどうも違うと感じるもの、様々出てくるものです。

手技の世界は、百人寄れば百とおりのやり方があるとよく言われます。それゆえ矛盾することも多々あるもの。

例えば迎随の補瀉などもそのひとつであるとおもいます。脈を診ていますとあまり迎随は関係ないのかと思われます。出内、開闔の手技も同じかと。

むしろ意識のほうに重点があるのではないでしょうか。意識を離さず固定でき明確(意念)であることがたいせつかもしれません。

灸にしてもそれは同じでしょう。じっと観察しながら施灸していますと艾の大きさ硬さそして壮数も基本的には調整すべきですが燃えているときに「そちら」からくる感覚、快感(補であっても瀉であっても)を掴むことが重要だと思います。

これは本当に不思議な感覚で置鍼している時などには鍼が緩んできた感覚もわかってくるものです。

わたしの考える鍼灸術の良さ

難しい理論を長々と展開し病証分析することも大切かもしれませんが今目の前で病む人の生身の体を直接本能的にといってもよいでしょうか、術者の手で、また体全体で感じ取り、相手に触れたとき生気と邪気の有り様を具体的にとらえる能力のほうが大事なのではないでしょうか。

感覚で施術するということがなにか低レベルのやり方のように言われることがありますがむしろこれは鍼灸術の基本中の基本であろうと思います。

病に苦しむ患者さんに長時間かけてあれこれとたくさんの質問をし、いかに正確に論治することに熱心になることもたいせつでありますが、そっと優しく傍に寄り、温かい手でつつむように触れ、お互いの気持と感覚を同調させて施術に当たることが私はもっと大切なことのように感じています。それは術者にもとても厳しいものを要求されることにもなるのですが。

最近よく、「病院のお医者さんはパソコンばかり見てこちらの体に触れてもくれない」と不満を仰る方が結構いらっしゃいます。

現在の鍼灸の世界もちょっとばかり同じようなっところがあるような気がしてならないのはわたしの考えが古いのでしょうか?

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