書庫 2019年

 東洋医学

天壇公園

ここで言う東洋医学とは中国伝統医学やそれらが古い時代に日本に伝えられ、わが国で独自に発展した漢方(鍼灸、漢方薬、按摩導引など)医学をさします。 (ちなみに鍼灸術が日本に伝わって来たのは6世紀の初め、飛鳥時代の欽明天皇(552年)の時代、中国から「鍼灸明堂図」などの医書がはじめて日本にもたらされた事より始まるとされています。)-北京天壇公園- (c)niki

ベナレスガンジス川 厳密には東洋医学に含まれるものとして、インド医学(アーユルヴェーダ:生命の医学、寿命の医学という意味らしい)、インドのアーユルヴェーダにつよく影響され、ラマ僧らによって伝えられるチベット医学やギリシャ、ローマ、インド医学などの影響を受けたアラビア医学などがある。 -ヴァナラシ- (c)niki

タージマハル -タージマハル- (c)niki

 気を感じる話【その1】

毎日古典的鍼灸術の臨床をしていますといつの間にか気を感じるのに敏感になっていくようです。

着衣の上からそっと触れて何故悪いところが判るのですかとよく患者さんに聞かれるのですがそのほうが悪いところが見えやすいのでそうしています。長年患っている部分は気の層が弱く薄く感じられ、むなしいような寂しさにも似た感覚があり、いっぽう比較的新しい患部では重い感じのような熱感というのか濁気というのか不快感(邪気?)を感じるものです。たとえば四肢の片方の関節に直接触れてもわからないほどの軽い炎症などあるときなどに両方同時に同じ速さで動かせてもらうと着衣の上からでも悪いほうにはまとわりつくようなちょうど曇天のような気配と雲がかかったような重さとだるさがいっしょになったような感じがするものです。感じというと漠然としてしまうのですがこれはもっと具体的、適当な言葉がないのですがむしろ「みえる、存在している」というほうが近いかも知れません。とくに頭部など人体上部ではこの感じがはっきりと感じることができるように思います。体から数十センチ、もっと離れているかもしれないくらいまで気が放出されているのが感じられることがありますし、気の弱いところと強いところがまだら模様のようになっていることもよくあり臨床では困らされることもしばしばです。

てい鍼のところでも書いたのですがうまく気が送れたとき(送れたのか?大きな気の世界に同調したのか?どう考えてよいのか判らないのですが...)には快感があり、そうでないときには術者まで疲れてしまったりします。不思議なことなのですがうまく施術できたときには長くそのことがからだ全体で感じられるのです。不幸にもそうでないときにはとても疲れが継続してしまいます。また患者さんが入ってこられる時や壁の向こうに待っておられるときにかえって体調や気分がわかりやすいことがあります。気は何段階(何層)にも感じるようになっているのかもしれません。意外に離れたほうが判る気もあるのでしょうか。

気の干渉 またはるか遠く離れていても感応する気もあるのかも知れません。 気は心と肉体の中間的な存在なのではないでしょうか?具体的に存在するエネルギーであり意識すればそのなかに意識されたものが入ってまた別の作用が働くようにもおもいます。パワースポットなどが世間では話題になっているようですがもしかしたらこれも感じる人にはご利益あるのでしょう。さきに述べた気の弱ったところに関しては施術していますととてもお互い気持ち良くなってきます。ときには幸せ感にも似た感覚がしてきます。重篤な状態のひとにはとても気持ち良いと喜ばれますし気の感じ方がたいへんに敏感になっていることがおおかったりするので温かい気ではなく熱い浸みこむような感じだといわれたりもします。

大自然の山々古典的鍼灸医学の世界には生気、邪気という言葉がたくさん出てくるのですがこれは古代の人々にとっては実はおおくの現代人が考えているような概念的なつかみどころのない気ではなくもっと具体的、実感的なものとしてとらえられていたのではないのでしょうか。

太古の昔より人間はこうやってお互い窮地に立たされた時には力を与え合い、ある時は奪い取る能力として気の力を利用していたのかもしれません。自分の生活環境でもわるい気にあてられないほうがよいであろうし普段から自身の良い気を守り高めるようにヨーガや気功、太極拳、食養などで努めて健康を維持することがだいじとおもいます。

 胃の気

「胃者平人之常気也。人無胃気曰逆。逆者死。」

宇宙の気

病院勤務をしていたときのこと、昨日までとても元気であったかたが突然亡くなるという経験を何度かしたものです。どんな脈をしていたのか今思えば気になるところです。

諸々の脈、胃の気ある時は生き、胃の気なき時は死すと。諸々の脈、濡(うるおい)ありて、和緩なるを胃の気ありというなり。胃の気の候いよういろいろ口伝ある事なり。(ー脈法手引き草ーより)

つぎのこんな文章をみつけました。

「......即ち、触って気持ちの悪い脈が「悪い脈」なのです。.....つまり触って気持ちの良い脈が「良い脈」なのです......。単純な感覚だけで「気持ち悪い脈」「気持ちよい脈」はどれか.....。」 (ー滋賀経絡臨床研究会・経絡治療の臨床研究ー より) 

これはまさに臨床家の言葉だなと共感してしまいます。

"....つまり触って気持ちの良い脈が「良い脈」....。" これも私は胃の気のことを表現しているとかんがえるのです。指先で一生懸命診ようとすると診えず、どちらかといえば術者が理屈や言葉でなくじかに「快感」として?直接ありありと感じる胃の気もあるのではないでしょうか。

 てい鍼を使うための「糸電話練習法」

糸電話で練習糸電話イラスト(ゴゴンのイラスト素材KANさん)

てい鍼の項目に関心が御有りになる方が多いようなので私なりのてい鍼を使うための練習法を書いてみたいと思います。

最初はてい鍼を持って押し手をつくり皮膚に当ててもただ金属の物体を持っている感じしかしませんが、これは意識の集中が旨くできないためだろうと思います。まさに「気が感じられない」のです。そこでこんなふうに気を感じる練習法を表現してみると分かりやすいかも知れません。

小さいころ糸電話を作って遊んだことがあるでしょうか?あの糸の先についた筒状の部分が押し手の接地面に(送話器側)、もう一方の筒(受話器側)をちょうど自分の額の中央に当てているというイメージをしてみるのです。そしてその間の糸は当然ピーンと張っていなければ音が聞こえないように、イメージした糸をできるだけ張って気の去来を聞く(感じる)ようにします。はじめは疲れますし肩に力が入るかもわかりません。そうするうちに押し手の下あたりや押し手全体、前腕や上肢全体にフワ~と温かいような、またジリジリするような、あるいはザワザワと蟻の大群がゆっくりとやってくるような感じがするかも知れません。これらの感じがすこしでも分かれば後はしめたものです。実際の臨床の場で何度も使えばよいのです。そしていつまでもこの練習法を続けると疲れますので気感が安定してつかめだしたらこんどは額の糸電話の筒(受話器側)を下腹の丹田あたりに持っていくようにします。そうしますと体の力も抜けやすくまた施術による疲れもたいへん少なくなるものです。ここの丹田に重心がありますと術者の気の動揺が無くなり少々の施術上の不足がありましても施術を受ける側を良いほうに持って行けるようです。何といっても巧く施術できた時の心地良さは受け手、術者、お互い体も気分も爽快にさせてくれるものです。

ちょっとついでにやってみようというくらいでは「気」は判らないかもしれません。しかしすぐにこの感触を掴める人もあるようです。またいくらやっても判らないこともあったりして残念ながら眉唾物と非難されてしまうこともあるようです。

 私の感動した本

東洋ハリ医学会 小里勝之 私の治療室から小里勝之 著

「私の治療室から」-経絡治療の治験集-

昭和55年12月1日初版発行のこの本。ずいぶん傷みもすすんでしまった。

いまでも手に入るのだろうか?

高度な弁証論冶が当たり前になったかのような昨今、この本を読み返すたび、あらためて鍼灸術とは何か、臨床とは何か、その奥の広さ深さを考えさせられるおもいがする。

第一章 私と経絡治療などは暇なとき何度も読み返したものであった。

名人鍼灸師の苦労と真摯な臨床への姿が読む者を虜にする。