氣を扱う鍼灸師になろうとする

概念上の気

「鍼と気」という用語で検索してみますとほとんどの場合気血水の中の概念上の気のことがずらっと出てきます。中医学が一般的になってくると非常に詳しくそれの説明がなされていて私のように古いタイプの鍼灸師は少々とまどいがちになってしまいます。

私が学び始めてしばらくしたころ興味を持ったのが難経を中心に編纂された経絡治療講話という本でした。今でも手に入れることのできる本だろうと思います。当時まだ経絡治療創始者のおひとり岡部素道氏もご健在の頃でした。六部定位脈診、腹診などと鍼管による浅置鍼で施術するのが一般的で術者の感じる「氣感」のことはほとんどいわれていなかったように記憶しています。

体で感じる氣

ほどなくして、当時は盲人鍼灸師達が創設した東洋鍼医学会に入り勉強することになりここでは支部会の場でも刺鍼練習では盛んに氣をつかむ練習をしたものでした。本治法は銀鍼1寸か1寸3分で1番鍼でやる、鍼管は使わない、指の先が平たくなるまで練習する、左右圧はしっかりと、下圧はかかりすぎてはいけないと何度も何度も練習させられたものです。施術時の姿勢のありかたまでやかましく教えられたものでした。同じ鍼灸師のあいだでもあれは宗教だ、そんな鍼が効くはずがないなどとよく言われました。この方法を続けていますとあるころから手に何かふわっとしたもの、温かみのあるもの、次には上肢全体にざわざわとした感覚が出てくるようになり面白くなってきました。もしかしたらこれが氣かと思い嬉しくなったのを思い出します。元来自分は神経質で体も強靭なほうではない、子供のころは病気ばかりしていました。意外とこんな感覚は神経質なもののほうが敏感なのかも知れません。鍼灸を勉強している本人が強い鍼が耐えられない、刺鍼練習中もよく具合が悪くなったものです。私は繊細な氣を扱う施術者になるしかないと自然に考えていたように思います。

鍼灸のみで生きるのは厳しかった

昔から鍼灸のみで生活していくのはとても難しいといわれます。今でもそうでしょう。ましてや氣を見て鍼灸施術をするということは至難の業かも知れません。それで何か別のものを併用してやる、これが曲者。どっちつかずになり結局なにもものにならない。それは頑としてやらない、私は頑張りました、ですがそれは所詮凡人には無理なこと、苦しい生活が続きます。

そして耐え兼ねてしきり直しということになってしまいました….

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